ナナメ横から世間を眺める。

ニュースを取り上げてみたり、たまに多数意見に抗ってみたり。

「改元」について、ついでに色々考える。

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どうも、ジヤッキー天野です。

先に、「新元号「令和」に寄せて。」という拙文を上げた。

 

jackie-amano.hatenablog.com

 

そこから更にいろいろ思うところがあり、これも手短に、日記代わりに書き留めておく。(以下の内容は「令和」の漢字の意味とは関係ない)。

 

本文を起筆するに至ったきっかけは、ふとこう思ったことである。

 

「もしかして近現代史における我々日本国民は、元号が代わるたびに気が大きくなって、先の見えないチキンレースに駆られてしまう性分があり、それで痛い目に遭う特性を持っているのではなかろうか。」

 

仮にそれが正しければ、我々はそのことにより自覚的であらねばならない。

 

平成。

昭和末期から続く好景気は昭和天皇崩御による自粛ムードの終了と体を入れ替えるかのように更なる上昇基調を見せ、平成元年末には日経平均株価は史上最高値を記録する。のちに言うところの、バブル景気である。バブルは程なくはじけ(というか爆発に近い)、所謂失われた20年へと突入する。

 

ひとつ飛ばして、大正。

大正元年は、荒ぶる陸軍が軍部大臣現役武官制を口実に一悶着を仕掛け、そのために第二次西園寺公望内閣が総辞職するという波乱から幕が開く。国内は護憲運動で揺れ、その鬱屈した空気の矛先は程なく海外に向く。大正四年、対華二十一か条の要求。大正六年、シベリア出兵。

 

明治。

今となっては明治維新の良いイメージが先行するが、その幕開けは凄まじい内戦、すなわち戊辰戦争だ。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の由来である。征韓論が台頭したのも明治初期。

 

戻って、昭和。

今となっては高度経済成長を遂げジャパンアズナンバーワンを謳歌した良き時代と思っている人も多いかもしれないが、始まって30年ほどは、とんでもない時代だったのだ。あまり多くは書かないが、経済恐慌、軍部の台頭と暴走、大戦、そして戦後の混乱…、まったくもって壮絶な時代であった。

 

こう見ると、元号が変わって10年のうちに、何もなく平穏無事に過ぎていった時代が、ないのだ。

そして、いずれも帝国主義の台頭や世界的な経済のトレンドといった外的要因に原因を求めることも不可能ではないものの、(こと大正以降は)日本国民に少しばかりの自制が利いていればどれも避けられたのではないか、ともいえまいか(ちなみに当文章では敢えて震災や凶作のたぐいには触れていない)。

 

きたる令和の世が無事であるようにと、手を合わせて拝むばかりである。

 

で、もっと言うと。

いま現在の空気に一番近いのはいつか。

 

考えたくはないがそれはもしかして、昭和の初期ではなかろうか。

 

何も、国家権力の在り方についてのみ申しているのではない。先のブログにも書いたが私はアベガー側の人間ではない。

 

懸念しているのは、マスコミだ。

 

そう書くと「だろ!マスゴミガー」と言い出す人もいるだろうが、そういうことではない。

 

マスコミは、我々自身が映る鏡に他ならない。

 

2011年のNHKスペシャルのURLを貼る。

「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」

第三回 「熱狂」はこうして作られた

https://www6.nhk.or.jp/special/sp/detail/index.html?aid=20110227

 

(以下引用)

日本が戦争へと突き進む中で、新聞やラジオはどのような役割を果たしたのか。新聞記者やメディア対策にあたった軍幹部が戦後、開戦に至る時代を振り返った大量の肉声テープが残されていた。そこには、世界大恐慌で部数を減らした新聞が満州事変で拡販競争に転じた実態、次第に紙面を軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気、紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に語られていた。
時には政府や軍以上に対外強硬論に染まり、戦争への道を進む主役の一つとなった日本を覆った“空気”の正体とは何だったのだろうか。日本人はなぜ戦争へと向かったのか、の大きな要素と言われてきたメディアと庶民の知られざる側面を、新たな研究と新資料に基づいて探っていく。

 (引用おわり)

 

うーむ。

なんだろう、この既視感。

 

最近の、とかく何事にもシロクロをつけようとし、悪しきと思しきことを徹底的に断罪する、TVのワイドショー、そしてコメンテーター。

なぜ、そうするのか。そのほうが、視聴率が取れるからだ。

 

最近の、思想的な立ち位置を表明することをはばからず(左右ともに、ね。)いちだんと扇情的な表現を採ることを厭わなくなってきている、新聞各紙。

なぜ、そうするのか。そのほうが、買ってもらえるからだ。

 

最近の、あることないこと書き立てて、火種発見と判断するや否や懸命に火をくべて油を注ぐ、ネットメディア。

なぜ、そうするのか。そのほうが、ページビューが稼げるからだ。

 

過激な内容のツイッターが多くの「いいね!」を集め、断定的で下品なコメントに夥しい数の「赤ポチ」が集まるという事実。

 

バランス感覚なんて、くそくらえ。

多面的なものの見方なんて、ドブに捨てて流しちまえ。

「立場」とか「事情」なんて言葉が書いてある辞書は、墨汁で黒く塗りつぶしてしまえ。

正義が勝つんだ。そして、俺が、正義だ。私が、正義だ。

 

大丈夫か。

大丈夫だろうか。

 

折しも全世界的にナショナリズム的な空気が鎌首をもたげつつあるこの時代に、我々は正気を保ち続けることができるのだろうか。

 

このキナ臭さ漂う鬱々とした空気感が、改元とともに一段と加速度を増し、絶望的な結末を迎えるようなことがないように、これも心から祈るよりない。

 

もしタイムマシンがあったら、戦後間もない頃の断腸亭主人こと永井荷風に会いに行きたい。

現状を示したうえで、「このあとどうなると思います?」と問うてみたい。

かなりの変人らしかったので、会ってくれるかはどうか定かでないが。

 

とはいえ、だ。カナダの心理学者のエリック=バーンによると「他人と過去は変えられない」らしい(ただし「自分と未来は変えられる」と続く)。

でもって、アンガーマネジメントでは「6秒こらえて、深呼吸。」が効果的らしい。

 

とりあえず自分は粛々と、深呼吸を続けていこうと思う。

 

※なんかすみませんね慶祝ムードに水を差すようで、なにしろ天邪鬼なもので。